みなさん、こんにちは。
2022年11月開催されるサッカーワールドカップ、カタール大会。
本大会において日本代表の監督を務めるのは森保一さんですね。
今回は、その森保一さんの若い頃、現役時代について。
遅咲きと言われた森保一さんの選手時代とは?
深掘していきたいと思います。


ワールドカップ|日本代表監督森保一
2022年ワールド・カップ、カタール大会において、日本代表を指揮する監督、森保一さん。
監督就任を発表されたのは、2018年7月のこと。
前回2018年のワールド・カップが閉幕し、西野朗監督の後任として代表監督に就任しました。
トルシエ監督以来、史上二人目
ちなみに、森保一監督は当時オリンピック日本代表の監督にも就任していました。
オリンピックとワールド・カップの監督を兼任したのは、日本では実は史上二人目。
2000年シドニー五輪と02年W杯日韓大会を指揮したフィリップ・トルシエ氏以来。
日本は、オリンピックにおいてもワールド・カップにおいても、その全権を森保一氏に託す形を取りました。
森保一、現役時代の経歴
それではここで森保一監督の若い頃、現役時代の経歴について纏めていきたいと思います。
長崎日本大学高校時代
静岡県掛川市生まれの森保一氏は、引っ越しの関係で長崎に移住し、長崎日本大学高等学校でサッカーをプレーしました。(上写真)
喧嘩でレッドカード
“真面目で誠実で選手思いの監督”。世間からはそんなイメージを持たれている森保一監督。
しかし、長崎日大高時代に相手選手に飛びかかって喧嘩をし、レッドカードをもらったことが2度もあったそうです。
しかし、そこには理由がありました。
味方の選手が(ラフプレーで)やられたからだと。仲間を助けるためにとった行動だったようです。
当時住んでいた長崎市の深堀地区は共同体意識が強い土地柄だったという。
困っている仲間がいれば理屈抜きに行動する。今に続く気質は地域で育まれたのかもしれません。
社会人からプロへ
高校卒業後は東洋工業(現:マツダ)のサッカー部である東洋工業サッカー部に入部します。
入部当初、森保一氏は選手としてあまり良い評価を得ることができていなかったとのこと。
しかし、転機が訪れます。マツダに指揮官として、元日本代表監督であるハンス・オフト氏が就任することになるもです。
オフト氏は森保監督に目をつけ、森保一氏を選手として引き上げました。
その後、オフト氏はチームの降格とともに退団しますが、後任のビル・フォルケス氏によって森保監督は育てられ、1991年にプロ契約を果たします。
そして、同年クラブは日本サッカーリーグ(JSL)1部に昇格します。
Jリーグ時代、代表選出
1992年にマツダはサンフレッチェ広島となります。
同年4月、オフト氏が日本代表監督に就任すると、森保監督は日本代表に招集されます。
当時のスター選手であるラモス瑠偉氏や三浦知良氏はと対象的に、ほぼ無名の選手として大抜擢されました。
しかしピッチに立つと評価され、海外の監督から「日本にはよいボランチがいる」ということから、「森保」と「ボランチ」のワードに注目が集まりました。
守備的ボランチとしてチームを支える
同時はラモス瑠偉氏の後方をケアする守備的MFとして活躍。1993年のワールドカップアメリカ大会アジア予選で、あの「ドーハの悲劇」を経験しています。
現役後半〜現役引退
1993年から開幕したJリーグでは中心選手としてチームを支え、1994年サントリーシリーズではステージ優勝に貢献。
しかし1995年7月、右足首関節脱臼骨折してしまい、思うようなプレーができませんでした。
代表では山口素弘氏がボランチに定着したため、その座を譲る形となりました。
1997年はサンフレッチェ広島が経営不振に陥り、その影響は森保監督にも降りかかります。
クラブは当初、同監督を京都パープルサンガに完全移籍をさせようとしていましたが、サポーターからの猛反発により、ローン移籍に。
1999年に古巣に戻るも新体制に居場所はなくなります。
2002年、クラブはスタッフ転進をすすめるも、森保監督は現役を続ける意思を貫きベガルタ仙台へ移籍します。(上写真)
ベガルタでは主力として活躍したものの、クラブはJ2降格し森保監督自身にも戦力外通知が下り、2004年に現役を退くこととなります。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
森保監督の選手時代の経歴でした。
監督として今回のワールド・カップでの活躍を願っています。




コメント